安藤優一郎氏のプロフィール
日本の歴史学者。専門は日本近世史(都市史)。
1965年生まれ。千葉県出身。
早稲田大学教育学部卒業。同大学院文学研究科博士課程満期退学。
1999年「寛政改革期の都市政策-江戸の米価安定と飯米確保」で早大文学博士。
国立歴史民俗博物館特別共同利用研究員、徳川林政史研究所研究協力員、新宿区史編纂員、早稲田大学講師、御蔵島島史編纂委員などを務める。
江戸をテーマに執筆・講演活動を展開。
安藤優一郎氏 オフィシャルサイト:http://www.yu-andoh.net/
2015年から「お江戸日本橋伝承会」配信分に毎月コラムを掲載。
配信していたコラムを年毎に「安藤優一郎氏の江戸歳時記」としてまとめてあります。
2017年は「江戸の食文化」の歳時記です。
2017.01【江戸のおせち】
2017.02【江戸の稲荷寿司】
2017.03【江戸の白酒】
2017.04【江戸の花見弁当】
2017.05【江戸の柏餅】
2017.06【江戸の初鰹】
2017.07【江戸のうなぎ】
2017.08【江戸の西瓜】
2017.09【江戸の梨】
2017.10【江戸の薩摩芋】
2017.11【江戸の蜜柑】
2017.12【江戸の大根】
2017.01【江戸のおせち】
おせち料理の予約がはじまると、新年が間近に迫っていることを感じますが、元々はお正月限定の料理ではありませんでした。季節の変わり目である節句に神様に供えた料理が、総じておせち料理と呼ばれました。
ところが、お正月が一年で一番の季節の変わり目であることから、正月に神様に供えた料理に限定して呼ばれるようになったのです。そもそも、正月にやって来る年神様にお供えするものであり、神饌でした。神棚から下げた上で食べるのが本来の姿でした。
現在もおせち料理は重箱に詰められますが、これは江戸時代にはじまったと伝えられています。四段重ねの重箱の場合、一の重に数の子、二の重に胡麻和えのたたき牛蒡、三の重に鮒昆布巻、四の重には黒煮豆を詰めるのが定番だったようです。
2017.02【江戸の稲荷寿司】
現在、二月の風物詩と言えば節分の豆まきですが、江戸の二月といえば、何と言っても最初の午の日に執り行われた初午の行事でした。この日、全国の稲荷社では豊作や商売繁盛などを祈願するお祭りが執り行われるのが習いでした。小豆飯と辛子菜の味噌和えを稲荷に供え、お祭りが終わると、みんなで食べたのです。
稲荷にまつわる食べ物と言うと、一番に稲荷寿司が思い浮かびますが、稲荷寿司が売られるようになったのは今から百七十年ほど前の天保末期のことと伝えられています。油揚げの一方を割いて袋形にした上で、刻んだ椎茸や干瓢などを混ぜた飯を入れ、寿司として売ったのがはじまりと言います。現在と同じです。
稲荷寿司という名前で売られたのは稲荷社のお使いである狐が油揚げを好んだからですが、当時は細長い稲荷寿司が切り売りされました。一本が十六問文で、一切れ四文でしたから、寿司の中では一番安いものでした。ちなみに、稲荷寿司は夜に売られることが多かったそうです。
2017.03【江戸の白酒】
三月三日の雛祭りが近づいてきました。桃の節句ということで、江戸初期は桃の花を浸した酒(桃花酒)が飲まれたようですが、江戸時代も半ばを過ぎると、白酒が飲まれるようになります。蒸したもち米と米麹を味醂や清酒に混ぜて発酵させた後、すり潰して造った酒が白酒です。粘り気のある白く濁った酒ですが、既に室町時代から造られていました。
酒のなかでは甘味が強かったためでしょうか。女性が好んだことも相まって、白酒は雛祭りの時に飲む酒として定着し、白酒と言えば江戸の三月の風物詩となります。 江戸で白酒を商った代表的な店である神田鎌倉河岸の豊島屋では、雛祭り直前の二月末になると、白酒を買い求める人々で店はごった返しました。そんな光景も、江戸の三月の風物詩でした。
2017.04【江戸の花見弁当】
お彼岸も過ぎると、桜の花見のシーズンに入ります。花より団子というわけではありませんが、花見の楽しみとして飲食は欠かせません。そうした事情は、江戸の人々もまったく同じでした。花見の名所は観光地化しており、飲食を楽しむ茶屋なども臨時に設けられましたが、弁当持参で花見に出かける人も多かったようです。こうして、花見弁当が生まれます。
落語「長屋の花見」では、酒は番茶、蒲鉾は大根の漬け物、玉子焼きは沢庵で代用されました。懐の寂しい江戸っ子ならではの花見弁当でしたが、享和元年(1801)刊行の「料理早指南」では、重箱に詰められた豪華な花見弁当の作り方が次のとおり紹介されています。一の重にカステラ玉子、むつの子。二の重に蒸かれい、桜鯛。三の重にヒラメとサヨリの刺身。四の重にはきんとん、紅梅餅。。。。これは、豪華な花見弁当でも上ランクとされたものでした。
2017.05【江戸の柏餅】
鯉のぼりや兜に象徴される端午の節句に付き物の食べ物と言えば、柏餅や粽(ちまき)ということになるでしょう。江戸では柏餅を食べるのが慣習でしたが、京都や大坂といった上方では粽を食べるのが習いでした。
当初、江戸では柏餅は自家製でしたが、今から約二百年前の宝暦年間より、菓子屋で柏餅が売られるようになります。それだけ、端午の節句には柏餅が広く食べられていたわけです。
『南総里見八犬伝』の作品で知られる作家の曲亭(滝沢)馬琴は自筆日記を残していますが、太郎という孫がいました。文政十一年(1828)の端午の節句当日、馬琴は約三百個の柏餅を菓子屋から購入し、親類に配っています。太郎の初節句の年だったのです。しかし、翌十二年(1829)からは自家製で済ませています。毎年端午の節句には、二百~三百個の柏餅を家族で作って配りました。菓子屋で買えたとはいえ、自家製にこだわる家も結構多かったようです。
2017.06【江戸の初鰹】
現在の新暦五月は旧暦で言うと一ヶ月遅れの四月にあたりますが、旧暦四月に取れる鰹は「初鰹」と称され、初物好きの江戸っ子の間では大変な人気を博しました。「目には青葉 山ほととぎす 初鰹」。今から約三百年前の元禄期に活躍した俳人山口素堂の有名な俳句です。この素堂の句をもじった狂歌師大田南畝(おおたなんぽ)の作品に、「目には青葉
耳には鉄砲 ほととぎす かつおは今だ 口へはいらず」という一首があるのは、あまり知られていないかもしれません。
南畝が詠んだように、初鰹は庶民である江戸っ子の口にはなかなか入りませんでした。それだけ高価な食べ物でした。「初鰹 薬のやうに もりさばき」という川柳が詠まれたように、手に入れられたとしても、貴重な薬を盛るかのように、わずかずつ分け合うのが関の山でした。しかし、幕末に入ると熱狂も薄れ、値段も下落していきました。
2017.07【江戸の鰻】
夏が近づいてくると、鰻の話題がいろいろなメディアで取り上げられるようになりますが、江戸の鰻と言えば蒲焼でしょう。身を開いて骨を取り、串に刺した上でタレを付けて焼く蒲焼という製法は、上方で生まれ江戸に伝わりました。江戸で鰻が好まれたのは、真水と海水が入り混じった隅田川の河口で育つ鰻が美味だったからと言います。タレは、江戸と上方で異なっていました。江戸は醤油に味醂、上方では醤油に清酒を加えたものが使われました。
鰻の蒲焼きに飯を付けるスタイルは、今から二百三十年ほど前の天明年間に登場しました。そして、現在のうな丼の元祖とも言うべき「鰻飯」が売り出されたのは二百年ぐらい前の文化年間のことです。鰻好きの大久保今助という人物が、蒲焼きが冷たくならないよう飯の間に挟んで持って来させたのが、鰻飯のはじまりと伝えられています。
2017.08【江戸の西瓜】
夏の果物の代表格として、西瓜は外せないでしょう。江戸初期に西瓜の種子が日本に伝来したと言いますが、既に室町時代には伝来していたという説もあります。当時の西瓜は甘さに欠けていたようです。そのため、西瓜を食べる時は果肉の中に砂糖を入れ、しばらく経過してから食べる方法が取られていたそうです。
明治以降の品種改良により、現在のように西瓜が甘くなりました。甘さには欠けていましたが、西瓜は江戸っ子には人気の果物であったため、江戸近郊にあたる現在の世田谷区や大田区などは西瓜の産地となっていました。
ただし、夏は食あたりの多い季節であるため、一緒に食べてはいけない食べ物として度々取り上げられています。江戸時代の料理書に、蕎麦切りと西瓜を食べ合わせると食あたりすると書かれているのはその一例です。
2017.09【江戸の梨】
これから食欲の秋の季節に入っていきますが、夏の果物の代名詞が西瓜ならば、秋の果物の代名詞として梨は欠かせません。現在、食卓に彩りを添える果物は明治以降に伝来したものが多いのですが、梨は栗や柿と同じく日本原産の果物です。江戸時代に入ると、江戸近郊を中心に一気に栽培が広がりました。それだけ、江戸っ子が梨を好んだのです。
とりわけ、多摩川沿岸での栽培が盛んで、多摩川梨としてブランド化されていました。多摩川沿岸でも現在の稲城市域や川崎市域がその中心でしたが、今でもその伝統は守られています。現在の江戸川区域や千葉県市川市域も梨の産地として栄えました。
梨の人気ぶりは、出荷の期日が規制されていたことからも窺えます。果物に限りませんが、江戸っ子が初物を好んだことから、出荷当初は品薄で価格が高騰していました。農家側もそれをみて、早めに出荷する傾向があったため、幕府は現在の九月ぐらいに入ってから出荷するよう命じています。価格の高騰を助長しないよう釘を刺したのです。
2017.10【江戸の薩摩芋】
秋の深まりとともに、焼き芋が恋しい時節が近づいてきますが、薩摩芋は江戸時代に入ってから広く食べられるようになった野菜です。薩摩芋と言えば「甘藷先生」の異名を持つ青木昆陽(あおきこんよう)がまず連想されますが、元々は救荒作物でした。凶作時にも収穫できることが売りでした。 幕府は昆陽の提言を入れて薩摩芋の試作を江戸で開始します。その試作場は小石川御薬園、現在の東京大学大学院理学系研究科付属植物園でした。
昆陽は薩摩芋の種芋を六百個植え、試作で得られた苗を江戸近郊の農村に広く配りました。単に苗を配布するだけでなく、農民でも読めるよう仮名書きした栽培法も配っています。こうした努力により、薩摩芋は関東各地に根付き、凶作時には多くの人々の命を救うことになりました。さらには特産物として江戸に大量に出荷され、江戸っ子も焼き芋の味を手軽に楽しめるようになったのです。
2017.11【江戸の蜜柑】
蜜柑は冬の果物の代名詞ですが、江戸っ子の間でも蜜柑はたいへんな人気でした。江戸っ子にとり、蜜柑と言えば紀州蜜柑でした。紀州から蜜柑を運んできて財をなしたと伝えられる紀伊国屋文左衛門のエピソードは良く知られているでしょう。
江戸初期、蜜柑は高級な果物で上流階級での贈答品でした。しかし、紀伊国屋文左衛門が活躍した元禄期に入ると、大量に出回るようになります。今から約三百年前のことです。その背景には、紀州藩が領民たちに蜜柑の増産を奨励したことが大きかったようです。大量に出回るようになれば、当然ながら価格が下がります。こうして、蜜柑は上流階級の果物から大衆の果物になります。
江戸に船で運ばれた蜜柑は、日本橋四日市町の広小路に陸揚げされました。そこで蜜柑市が開かれ、果物を扱う商人の手に渡ります。そして、江戸っ子の口に届けられたのです。
2017.12【江戸の大根】
冬の訪れを感じる今日この頃ですが、冬の野菜と言えば大根は欠かせません。江戸時代には、練馬大根や亀戸大根など大根の特産地が次々と生まれましたが、練馬大根はその代表格でした。当時の練馬は農村でしたが、犬好きで知られた五代将軍徳川綱吉の時代である元禄期より、大根の生産が拡大します。改良が重ねられた結果、八代将軍徳川吉宗の時代である享保期には、将軍献上用の大根となります。
その結果、練馬大根は日本一の大根との評価を受けました。朝鮮からの外交使節・朝鮮通信使へのお土産に選ばれたほどでした。練馬大根は、沢庵漬けとしても人気がありました。大量生産がおこなわれ、一つの大樽につき四千本以上の大根を漬けた事例までありました。明治に入ってからも、東京で生産された沢庵の八割が練馬産でした。